ヘングレと魔法使い(パティシエ)
≪零覇4≫
零覇がパティシエを目指したのは、妹の影響だった。彼の妹は体が弱く、外で遊ぶことは勿論、友達という友達も存在しなかった。彼女はいつも笑顔だった。それは、体が弱いことで既に過保護なくらいに優しく、心配してくれる家族に少しでも心配を掛けまいとした彼女なりの小さな、ささやかな努力だった。
彼女が心配を掛けまいと笑顔を浮かべていたことに家族は気付いていた。そして、その笑顔を浮かべるという行為を必死に、それこそ無理してでも行っていることに気付きながらも、彼らにはどうしようもなかった。ただ元気で成長して欲しいという願いと心配を掛けたくないという想いがすれ違い、いつしか彼ら家族は何処かよそよそしく、ギクシャクしていった。
零覇は聡い子供だった。彼もまた幼かったものの、それでも家の中が何処かギクシャクしていることに気付いていたし、妹が作る笑顔が痛々しいことにも気付いていた。彼は昔の様に皆で心から笑いあいたいと思っていた。
転機は、学校の調理実習だった。偶々、小さなカップケーキを作ったのである。彼と一緒の班になった少年が妙に手馴れていたことに疑問を持った零覇は何気なく問いかけたのである。どうしてそんなに上手いのか、と。すると少年は照れたような笑顔をうかべ、こう言った。
「ウチの妹がね、お菓子好きで作ってあげるとすんごい喜ぶんだ。それが見たくてお菓子作りを始めたら、はまっちゃって。それにね?売ってるお菓子よりも、僕が作ったお菓子の方が喜んで食べてくれるから、それも嬉しくて」
零覇はそれを聞いて思った。もし、自分がお菓子を作って持って行ったら。そしたら妹は昔みたいに屈託なく笑ってくれるのだろうか。皆で楽しい時を過ごせるのだろうか、と。
短絡的で、ただの思い付きで、それでも、彼にとっては唯一の光明だった。零覇は少年に頼み込んだ。お菓子の作り方を教えて欲しい、と。少年は喜んで手を貸してくれた。
そして、暫くの特訓の後、彼は妹に手作りのお菓子を手渡した。出てきたのは、不格好で、ところどころ焦げた、見ようによっては失敗作なお菓子だった。上手く出来なかった、としょげる兄に吹き出した彼女は、そのお菓子を口に含み、マズい、といって笑った。益々不貞腐れた零覇の耳に、囁くような声が届く。
「ありがとう」
見開いた零覇の目に飛び込んできたのは、何処か泣いているような、でも、嬉しそうな何年かぶりの妹の心からの笑顔だった。その笑顔はびっくりするくらいに綺麗で、彼の胸に焼き付いた。
それからというものの、彼はお菓子作りに没頭した。もう一度あの笑顔を。その為に彼はお菓子を作り続けた。彼の妹はどんなに彼が上手く出来たと思ったお菓子でも、必ず、マズいと言った。それでも、その後に浮かべる彼女の笑顔は偽りではない笑顔だったから、零覇は作り続けた。やがて、兄妹のお茶会に両親も加わるようになり、行きつけの病院の看護師たちが加わるようになり、やがて、同じように病気で苦しんでいる少年少女たちも参加していった。ささやかなお茶会は賑やかなお茶会となり、妹は段々と明るくなっていった。それに比例するように弱かった体も少しづつではあったが、丈夫になっていった。
彼は次第にお菓子で人が笑顔になるという事に惹かれていった。お菓子を作る、ただそれだけの行為で皆が笑顔になってくれることが嬉しくて、もっと多くの笑顔が見たいと思うようになっていった。
彼は、パティシエになることを決めた。両親も妹も応援してくれた。専門学校で彼は学んだ。彼の才能は一気に開花した。他の誰にも真似でいないほどの精巧なお菓子を作り、誰もが思いつかないような独創的なお菓子を作り続けた。彼の作品は、数々の大会で賞を欲しいがままにしていった。だが、そんなことは彼にとってはどうでもいいことだった。彼にとってはお菓子を作ることと、それを食べた人が笑顔になるのを見ることの方が重要だったのだ。だが、周りはそうではなかった。
周りの者は皆一様に嫉妬した。自分達にはない才能を持ちながら、興味ないと言い放つ彼が赦せなかったのだ。彼らは、ただひたすらに零覇を排除しようとした。大会の準備を妨げたり、学校で孤立させたりと、様々な手を使った。しかし、零覇にとってはどうでもいいことだった。彼は、夢であった小さな店を開くことにした。
出だしは順調だった。店は小さいながらも、美味しいと言って食べてくれることが何よりも嬉しかった。それだけで、良かったのだ。
しかし、現実は甘くなかった。
ある日から、突然客足が少なくなっていったのだ。零覇には何が起きているのか分からなかった。そして、ある日、その記事を見つけたのだ。
とある有名菓子レポーターが、彼の店を散々に言っている記事だった。そこへの書き込みもまた、零覇のある事ない事を散々に書き込まれており、見ているだけで気分の悪くなるものだった。
零覇はすぐに抗議した。すると、そのレポーターは自分が納得できる菓子を作れたら撤回すると言ってきた。零覇は一も二もなく受けて立った。
当日、彼は全力で彼の菓子を作った。見た目も味も完璧だった。
完璧のはずだった。
結果は、酷いものだった。一口食べた瞬間に、レポーターは顔を極限まで歪め、地面に菓子を落としたかと思ったら、足蹴にし始めたのだ。呆然とする零覇が動けないでいると、レポーターはマズい、最悪だ、と散々に罵倒して鼻息荒く帰っていった。その騒ぎは近隣の者達の知るところとなり、彼の店は誰も訪れなくなった。
流石にショックを隠せない零覇の元に、ある情報が持ち込まれた。そのレポーターは金でいいように記事を書く最悪なレポーターであり、彼の店をつぶすことを依頼したのは、彼の所属した専門学校の、彼の才能に嫉妬した者達であったというのだ。零覇は絶望した。ただ菓子を作って、笑顔が見たかった。それのどこがいけないというのだ。それでも彼は諦めなかった。もう一度やり直そう、そう思ったその時だった。
彼の妹が、亡くなった。
結局、その病弱体質に完全に打ち勝つことのできなかった彼女は、十数年の短すぎる生を終えたのである。零覇の原点であり、最大の理由でもあった存在が消えた。
もう、誰も、俺の菓子を、食べてくれる人は、いないのか。
彼の心はパキンという音を立てて割れた。
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