ヘングレと魔法使い(パティシエ)
少し前まで昼寝をしていたところまで来たところで掴んでいた手首を話す。痛いだの、赤くなっちゃっただのとぶつぶつ言う双子の片割れを振り返り腰に手を当てる。
「これで何回目?いい加減に学習しなよ」
「何回目かなんていちいち覚えてないわよ。仕方ないじゃない、急にお菓子作りたくなっちゃったんだから」
ふんっと顔を勢いよく背ける。その姿に頭を抱える。
「ってか、ヘンゼルはどうして我慢できんのよ。アンタだってパティシエになりたいって言ってたじゃない」
横目で様子を窺う妹に、ヘンゼルは一瞬瞳を揺らす。しかし、次の瞬間、全く普段通りにグレーテルを宥めようと声を掛ける。
「それは昔の話。よく考えてみなよ。その夢が叶うと思う?と言うか、叶えられると思う?」
ちょっと怒ったような兄の顔。一瞬揺れた瞳は見間違いではないかと思うくらいに平然としたその態度が気に食わなくてグレーテルは目を細める。
「夢は叶えてなんぼよ!叶わない夢なんて夢じゃないわ!」
「だから、そうじゃなくて」
話の通じない妹に頭痛がしてきたヘンゼルである。これは一回本格的に説教が必要かと顔を上げると、思いのほか真剣な面持ちのグレーテルに気圧される。
「…ねぇ、本気でパティシエになる夢、諦めたの?」
「…そう言ってるだろ」
「嘘ね」
動揺したのを気取られないように気を付けたつもりだった。それなのに即答で嘘を見破られ、言葉に詰まる。そして、夢を諦めたということが自分の中では嘘であったことに気付かされ、そのことに何よりも驚かされる。
「だってさ、本気で諦めたって言うなら、どうして私の事グレーテルって呼ぶの?自分のことヘンゼルって呼ぶなって言わないの」
「…っ、ただ、今までその呼び方だったから、その呼び方に慣れきってて」
「ヘンゼルの性格からして本気で諦めたとしたら、止めろって言ってるはずよ。そもそもこの呼び方は私たちか、親しい友達しか呼ばないじゃない」
痛いところを突いてくる妹からそっと目を逸らす。
彼らがヘンゼル、グレーテルと互いを呼ぶようになったのは、あのケーキ屋に行った後からだ。あの時食べたケーキの味、そして何より、お兄さんの嬉しそうな顔とありがとうと言う言葉が忘れられなかった。あのお兄さんが見ていたものを見てみたい。美味しいお菓子で笑顔になるところを見てみたい。いつしか二人はパティシエに憧れていった。
「ねぇ、ヘンゼルとグレーテルって私たちにぴったりの名前じゃない?」
グレーテルが笑顔でそういった日から二人はその名前で呼び合うようになっていった。その名前は、憧れの象徴でもあったのだ。
「でも、仕方がないじゃん。僕はいずれこの家を継がなくちゃなんないんだし、グレーテルは誰かと結婚して何処かの家の奥様になるんだから」
「ふっふっふー。良くぞ言ってくれました。ちゃぁんと考えてあるのよ、このグレーテル様は」
満面の笑みを浮かべる妹にヘンゼルは顔が引きつるのが分かった。この妹が、この笑顔を浮かべた時と言うのは、大概ろくなことがない。引きつった笑顔を浮かべる兄に向って胸を張ったグレーテルは高らかに宣言する。
「この家から脱出すんのよ!平たく言うと家出よ、家出。家出してやろうじゃないの、こんな家っ!!」
0コメント