ヘングレと魔法使い(パティシエ)
≪家出1≫
麗らかな気候の日、だんだんと空気が寒さを帯びて来てはいるもののそれでもまだ、眠気を誘う暖かな日差しが照っている。小鳥たちの囀る、その心地よい音色の他は静寂に包まれており、誰もが口を揃えて、最高の陽気だと言うだろう。その陽気に誘われて昼寝をしている少年がいた。
ガッシャーン!!
突然この素晴らしい日を台無しにするかの如く凄まじい音が広い庭に響き渡った。うつらうつらと微睡んでいた彼は、何事かと飛び起きて、すぐにため息をついた。
無視だ無視。
少年は口の中で呟くと、再びパタリと倒れこんだ。なんだか屋敷の方が騒がしい。しかし、これで起きたら負けな気がして、少年は意地でも動かないと決めた。ところが。
ガッシャーン!!
再び何かが床に叩きつけられたような騒音が響き、彼は眉を寄せた。
ガッシャーン!!
三度目の音が響き渡った時、とうとう彼は白旗を上げた。一体どうすればあんな音が三回も。ぶつくさ呟き、嫌がる体に鞭打って起き上がる。そして、重い腰を上げると彼はゆっくりと屋敷へと歩いて行った。
重い足取りで彼が向かったのは広い屋敷の厨房。彼の予想が正しければ、そこで最早日常茶飯事となりつつある事件(けんか)が起きているはずだ。それを裏付けるように厨房の入り口付近にたむろっていた使用人たちが彼の姿を見て、ほっと息をつく。まるで救世主が現れたかのような視線にため息がせりあがってくる。それをどうにかこうにか噛み殺した彼が腹を括って厨房に一歩踏み出した時。
「いい加減にしろ!栄光ある稲菓家の娘が使用人の真似事をするんじゃないっ!」
「いい加減にするのはそっちよ、お父様!栄光あるとか、使用人の真似事をするなとか、いったい何時の時代の貴族よっ!うちはただの金持ち財閥じゃない!そもそも私がやってるのは使用人の真似事じゃなくて、パティシエの真似事よっ!」
見るも無残に散らかった厨房に怒鳴り声が響く。想像した通りの光景に頭が痛くなる。何もそこまで荒らさなくても。現実逃避気味に考え、遠い目をしたが、一つ頭を振ってその考えを追い出すと、現実に向き直った。そんな彼の目の前では、恰幅のいい男と少女と言っていいほど若い女が睨みあっていた。
微妙にズレていながらも、全くもってその通りと言いたくなる少女の反論に内心大きく同意しながらも事態の鎮静化を計る。
「皆困っているし、その辺にしたら?二人とも」
その声にいち早く反応した少女が振り返って目を輝かせた。
「ヘンゼル!ちょっと、聞いてよ!新作のお菓子作ろうとしたら、とんでもない邪魔が入ってさ」
「いい加減にしなさい!使用人の真似事など言語道断、それからその妙な呼び方を直しなさい!」
「ちょっと、聞いてなかったの?それともそのお耳は飾り物かしら?私は使用人じゃなくて、パティシエの」
「はいはい、一回落ち着いて、グレーテル」
父親たる男―勝唯の火に勢いよく油を注ぎこむ少女―グレーテルを慌てて宥める。今だ怒りが収まらず、ぐるる、と唸る彼女を無理やりに押さえつけると、彼―ヘンゼルは父を振り返った。
「すみません。でも、グレーテルはただお菓子を作りたいだけで」
「お前たちはそんなことをする必要などない!菓子が食べたいなら作らせるなり買ってこさせるなりすればいいだけだろう」
「私は食べたいんじゃなくて、まぁ食べたいけど、それよりもお菓子を作って食べてもらいたいだけよ!」
「グレーテル!」
食って掛かる片割れを必死に押さえつける。その様子に鼻を鳴らした勝唯はじろりと睨みつけてくる。
「兎に角、もう二度と、この様な場所に立ち入るな。この様に煩くして、荒らしてしまったら、料理人達が迷惑するだろうからな」
「それは、お父様がやったんでしょ!?食材もこんなに散らかして食べ物も大事に出来ないような人にとやかく言われたくは」
「すみません!よく言って聞かせるので、失礼します!」
「ちょっと、ヘンゼル!」
このままでは埒が明かない、その前に胃に穴が開く。目を吊り上げる父親を見て、グレーテルの手を掴んで無理やり引っ張り出す。不満げな声を聞き流し、厨房から飛び出した。
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