ヘングレと魔法使い(パティシエ)
≪prologue≫
それは、ある日の思い出だ。その日はびっくりするくらいに綺麗な青空が広がっていたことを覚えている。
何時もなら、家の大きな車の中からしか見ることのできないその景色の中を、大きな、でも少し骨ばっている手に引かれて僕たちは歩いていた。見回す辺りは、どれもこれもが新鮮で、引かれている手はゆっくりのはずなのに、とても速く感じた。
お二人は、この様に歩かれたことはないでしょう。それは、我が家がとても裕福で他の者達と一線を画していることの証明でもあります。ですが、ゆめゆめ忘れてはなりませんぞ。我々もまた、この周囲の者達と根本の所では何も変わることはないのです。将来、お二方はこの周囲の、者たちを支える側になられるのでしょうが、だからこそ、その事を忘れてはならないのです。
そう言って、爺は振り返ってしわくちゃの顔を更にしわくちゃにして、笑った。爺の言ったことは全くよく分からなかったけど、不思議と、心に刻まれた気がして、僕はこくりと頷いた。爺の反対の手を握っている僕の片割れも、神妙な顔をして頷いていた。
爺は、僕たちが理解できていないことに気付いていたんだと思う。今は分からなくて良いが、その言葉を忘れないで欲しいと言った。僕たちがもう一度頷くと嬉しそうに笑った。
賢いお二人にはご褒美を上げましょうね。
爺はそう言って、一軒のお店の前で立ち止まった。そのお店は小さな僕たちにはとても大きく見えた。そのお店からはとてもいい匂いがしていた。
カラン。
ドアを開けると、ドアについていた小さな鈴が可愛らしい音を立てて歓迎してくれた。
いらっしゃいませ。
お菓子がたくさん並んだケースの奥に立っていたお兄さんが、振り返り口元に笑みを刻んだ。どれでも食べたいものを、と言う爺に僕の片割れが訴えた。
お父様に、怒られちゃう。怒ったお父様は怖いんだよ?
それを聞いたお兄さんが、声を掛けてきた。
君たちは、甘いお菓子、嫌い?
ううん。大好き。
じゃあ、食べていきな。お父様の事なんて関係ない。食べたいから、食べる。好きだから、食べる。それでいいじゃんか。
そう言ってお兄さんはケーキを差し出してきた。そのケーキはあまりに綺麗だったから、僕たちは思わず受け取ってしまった。そのことに狼狽えて、お兄さんの顔を窺うと、お兄さんは悪戯っ子の顔をして頷いた。
恐る恐る一口食べると、あんまりにも美味しかったからびっくりして、知らず知らずのうちに笑顔を浮かべていた。僕の片割れもびっくりしたように目を丸くしていたが、目が合った瞬間に思わず、ふふっと声を上げて笑ってしまった。
カシャ。
突然聞こえた音に顔を上げると、いつの間にかお兄さんがカメラで写真を撮っていた。その視線に気づき、お兄さんは照れたように笑いながら、カメラを差し出してきた。
見てみな。いい顔してんだろ?
そう言って見せてくれたカメラの中の僕たちは本当に嬉しそうに笑ってた。
甘くて美味しいお菓子って、皆を笑顔にしてくれるんだ。その顔が見たくてパティシエになったんだ。いい笑顔見せてくれてありがとな。
そう言ってお兄さんは本当に嬉しそうに笑った。その笑顔がどうしてか、眩しく見えた。
魔法使い。
隣で片割れがポツリと呟いた。チラチラとカメラとケーキの間に視線を走らせ、お兄さんを見上げると、ふにゃっと笑った。
こんなに綺麗な物を作って、皆を笑顔にするなんて、お兄ちゃんは魔法使いなんだね。
最近片割れが気に入っている絵本に出てきた優しい魔法使いの姿を重ねたのだろう。僕も、小さく笑って、呟く。
うん。魔法使い、だね。
目を輝かす幼い僕たちに見つめられて、魔法使いはびっくりした顔をして、あちこちに視線を向けた後、ふいっと顔を逸らした。その耳が赤くなっているのを見て、爺が笑っていた。
お店を出て、振り返ってみたら、看板が目に入った。
Haus des Kuchens
何て書いてあったのかは分からなかったけど、その文字はどうしてか今でも鮮明に覚えている。
そのお店は、今はもう、ない。
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