漏斗状の何かに落ちない為には。
ちらちらと降る雪を見て、そして彼女の勉強机の上に積まれた書籍のうち、その一番上に置かれたソレを見て、俺は何とはなしに二年前の記憶に思いを馳せた。
「……何これ地獄」
「ふむ。三尾君、それは漏斗状のものかい?」
「ん?」
「んん?」
勉強会と称して芳賀さんのお家にお邪魔したある冬の日。……疚しいことは何もない。高校受験を目前にして、しかし若干の下り坂傾向にある俺を見兼ねた芳賀さんが受験対策講座を開催してくれたのだ。が、俺は目の前のローテーブルに積まれた、きっと彼女の手作りであろう分厚い問題冊子を見て絶句した。思わずぽろりと漏れたのが先の言葉だったのだが、芳賀さんの返しにさらに首を傾げた。彼女も俺の返しに首を傾げたので、二人して首を傾げることになる。それがどうにも可笑しくて、またも二人して顔を見合わせて笑った。
「それで、地獄が漏斗状って何なんだ?」
「ああ、これだ」
一頻り笑ったその後、先の芳賀さんの発言が気になって問いかけてみれば、彼女は一冊の本を彼女の勉強机から持ってきた。タイトルは『神曲 地獄篇』。
「かみきょく、地獄篇?」
「しんきょく、地獄篇だ。……きっと誰もが一度は間違えるタイトルの読みだな。安心しろ、私も初見では間違えた」
くすり、と芳賀さんは笑って、するりと背表紙を撫でた。
「『神曲 地獄篇』。ざっくり言えば、一人の詩人が先達たるラテンの詩人に案内されながら、地獄を見てまわる話だ。その中で、地獄は漏斗のような形をしていて、地球の中心へ向かって九層から成る、とされている。中心近くへ行けば行くほど、罪人の背負う罪は重いのだそうだ」
だからといって、地獄と聞いて漏斗状を思い浮かべるのは芳賀さんくらいだと俺は思う。そんな顔をしていたのか、芳賀さんは少し心外そうに顔を顰めた。
「偶々、偶然、昨日の晩に眠れなくて読み返していただけさ。だからすぐに思い浮かんだだけだ」
「眠れないからって、それを読み返すのもなかなかだと思うな」
そう言ってやれば、芳賀さんはむうと頬を膨らませた。可愛い。
「まぁ、だがいい機会だ。こんな話をしておこう。三尾君、この本で特に罪の重いものだとされる罪状は何だと思う?」
「うへぇ、いきなりだな。……うーん、殺人、とかか?」
「そうだな、殺人を暴力と捉えれば、三番目、だな。二番目は悪意、特に媚びや偽善。一番は裏切り、なんだそうだ」
暴力や悪意が重いのは何となくわかる。
「裏切りが一番なのは意外だな」
「まぁ、作者たるダンテが生きた時代は政治的抗争やら何やら色々とあったらしいからな。その批判も込めてという面が強いのだろう」
今度調べてみるといいさ、と言った後、芳賀さんは真面目な顔をして俺の目を見た。そこに若干の怯えを見たような気がして、だから俺は、訳は分からないままに、しかし、しっかりと彼女の目を見返した。
「性悪説をに倣うなら、私たちは悪行を犯す可能性は十二分にある。もう、既に犯している可能性もある。特に裏切りは、修復が不可能な大罪だ。悔い改めるには、それ相応の苦行が強いられる。……なぁ、三尾君。君はそれに耐えられると思うか?」
ゆっくりと、俺は彼女の言葉を嚙み締めた。耐える、という行為には、どうしようもないほどの苦痛が伴うことがあることを、俺は知っていた。その苦痛は、しかし、耐えきってみせようという覚悟があれば、気持ち低減することも、俺は知っている。
「罪を自覚して、それ相応の覚悟を以って相対すれば、耐えきれないこともない、と思う。その先に、希望を持てばいい。持ち続ければいい」
そう答えれば、芳賀さんは驚いたように、はたと目を見開いて、そして、ぷはっ、と吹き出した。
「ふ、ふふ、そうだな。君はそういう奴だった。ふふ、三尾君、君はそもそも地獄には落ちん」
「へ?」
「地獄の門には、こんな言葉が刻まれている。「この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ」と。君はそもそも希望を捨てないのだから、地獄には行かない」
なるほど、なら私も君に倣って希望を捨てずに生きていこう。そう笑った彼女の顔は、素晴らしく晴れやかだった。
「懐かしいな、神曲か」
ふいに掛けられた言葉に振り返れば、二人分の紅茶を持った芳賀さんが立っていた。ローテーブルに紅茶を置いた彼女は、ぱらりとその本のページを捲る。
「三尾君、君こそが、私の希望だよ」
ふうわりと呟かれた言葉は、ページの流れる音でよく聞こえなかった。
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