恋は盲目

「一つの声を持ち、四つ足、三つ足、二つ足の姿をとるもの……」

「……オイディプス王か」 

「ああ。スフィンクスの謎かけの……うん?」 

 高校からの帰り道、ぽつり、と芳賀さんが呟いた言葉に聞き覚えがあると思って彼女に確認すれば、やはり、想像した通り、オイディプス王の一節だった。しかし、彼女は何か引っ掛かったらしく、うんうんと唸り始める。別におかしなことを言った覚えはないのだが、というか、往来の真っ只中で唐突に唸り始めるのはやめてほしい。周りの視線が痛い。 

 そんな俺の気持ちもお構いなしに一頻り唸った芳賀さんは、ぽうん、と手を叩いた。何か閃いたようだ。ぴこーん、と彼女の頭上で電球が光ったように見えたのは、きっと俺が疲れているからだろう。物凄く可愛らしかったとか言ってはやらない。 

「ああ、三尾君。私は君を常日頃から頭の弱い方だと思っていたが、間違いだったよ。君は天才だ。ああ、正しく天才だ」 

「いやいやいや、え? 何? 俺のこと馬鹿だと思ってたの? 端的に言えば馬鹿ってことだよな、頭弱いって。しかも馬鹿って評価からいきなり天才に跳ね上がったのは何事?」 

「……すまない。やっぱり君は馬鹿だ。訂正しよう」 

「ええっ」 

「ふふっ。可愛いな、三尾君は」 

「……ははっ。楽しそうで何よりです」 

 にんまり、と満足そうに笑う芳賀さんに、俺も笑い返す。若干、疲れているとか乾いているように聞こえるとかは言ってはいけない。俺だって、なんだかんだ言って彼女とこうやって話したり、彼女に揶揄われたりするこの時間が好きなのだ。 

「……で? 何を閃いたんだ?」 

「ああ、スフィンクスの謎かけの答えさ」 

 答えといえば、人間ではなかっただろうか、と俺が思ったことを見透かしたのであろう。芳賀さんは、にやり、と笑う。 

「それだから君は馬鹿なんだ。物語で提示された答えが正しいとは限らないぞ? まぁ、今回の場合は、人間は半分くらい正解、ってところだろう」 

「じゃあ、正解は何なんだ?」 

 正解を尋ねれば、待っていました、とばかりに芳賀さんの瞳が煌めいた。 

「オイディプス本人、さ」 

「えっ」 

 オイディプス本人とは、また奇想天外な答えを出してきたものだ。まじまじと芳賀さんの瞳を見遣れば、俺の驚いた顔がお気に召したのか、彼女はご満悦だった。 

「確かに、答えは人間で間違いはない。だが、それはスフィンクスにとって、だ。怪物たるスフィンクスにとって、人間は餌に過ぎん。食えるか食えないかくらいで、目の前の人間の名や、そいつが何者であるかなどは気にならんだろう。謎かけの答えとなる人物もまた人間だ。スフィンクスにとっては他の人間と大差ない」 

 だからオイディプスは人間と答えて正解だったのさ、と芳賀さんは笑うが、俺には既に訳がわからない。それすらも彼女にはお見通しなのだろう。くつくつ、と笑って解説を始める。 

「そもそも、だ。四つ足を赤子と捉えるのが違う。ああ、まぁ、間違いでもないんだがな。四つ足は獣だ。オイディプスは己が実母とまぐわい、子を生した。知らなかったとはいえ、な。それは一般的に、獣の所業として捉えられる。二つ足は真っ当な人間だ。己が二つの足で立つ、人間。三つ足は、盲人。杖を突くのは何も老人だけじゃない。寧ろ、老人は杖が必ず必要というわけでもない。年老いても元気に二つ足で歩くジジイババアは多いだろう? だが、盲人は杖が必須だ。周囲を確認する術がなくなるからな。オイディプスも最後には自ら目を潰して盲人になった」 

 ……確かにそうだ。オイディプスは真っ当な人間から、知らなかったとはいえ実母と子を生し獣となり、事実を知って盲人となった。杖が必要か否かは、老人であるから必要とは必ずしも言えない。酷い皮肉だ。 

「君も思ったな? 酷い皮肉だ、と。そうだ。酷い皮肉だ。オイディプスは、己が何者か知らないまま、この問いが己を示すと知らないまま、人間(おのれ)だと答えたのだからな」 

 一つ首を振って笑った芳賀さんは、静かに零す。 

「この上ない悲劇だ」 

 重い沈黙が落ちた。言葉を発せなかった。 

「……当時の人間は、神には逆らえなかった。神、即ちそれは、運命。ギリシア悲劇に悪者はいない。神に翻弄され、人間は怒り、葛藤し、泣き叫び、破滅する。人間に抗う術はない。仮令、神託を受けたとして、そこで当人には見えない幾つかの選択肢が示され、それぞれ幾つかのイフが発生する。もしオイディプスの実父が、オイディプスを生まなかったら。或いは死の覚悟をもって生み育てたら。オイディプスが本当に殺されていたら」 

 一瞬、松葉杖を突いた友人の自嘲的な笑みと、今より少し幼い目の前の少女のシニカルな笑みが頭を過った。あの日、あの時、気づいていれば、もっと早く、はやく。悲劇は避けられた?

 一つ頭を振って、過ったものを振り払う。 

「……そしたら、こんな悲劇は起きなかった? そんな夢想ほど無意味なことはないんじゃないか?」 

 言えば、芳賀さんは深く頷いた。 

「ああ、無意味だ。物語の筋道は、その中に囚われている人間にどうこうすることはできない。それが神という運命だ。現実とて、同じ」 

 ぴしり、と俺の目を見据えて、芳賀さんは笑う。 

「過去は変えられない。運命にも、抗えない。イフなど無意味だ。だが、常に最善を考え、歩むことはできる。……なぁ、三尾君。私はこれでも救われているんだ、君に」 

 ああ、彼女はわかっているのか。俺の後悔を。それでも、隣に立って、俺の背を押して、一緒に歩んでくれるのか。 

「……俺も救われてるよ、芳賀さんに」 

 笑い返してやれば、芳賀さんはふうわり、と眩しそうに目を細めた。 

「三尾君、ありがとう。……はは、私は今きっと、三つ足かもしれんな」 

 これは、俺が彼女に実に遠回しな告白を受ける、一週間前の話。 



テーマ:オイディプス王

解釈は色々あるとは思うんだが、時間帯指定がない訳を読んだときにパッと思いついた解釈だな。

まさか、ジャガイモメンバーで書くとは思ってなかったケドww

ツキナギ発狂日誌

法政大学多摩キャンパスに通う凸凹だけど中身はよく似たツキとナギが綴る日々の(発狂)日誌。

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