事件File:1 アイアンクロー事件
お前なぁ、オレの奢りだからってここぞとばかりに高いもんばかり頼むなっての。まったく。……あ?煙草?やめとけやめとけ。ただでさえ胃やら頭やらにクる職場だってのに、肺まで悪くしちまったらやってられねぇだろ。ははっ、ひっでぇ言い方だって?お前もすぐにわかるさ。……はぁ?オレの鶴野係での初仕事?ンなもん聞いたところでなにも面白くねぇぞ。……ったく、仕方ねぇな。
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「で?その鶴野恩之じょ……恩之丞って詐欺師が?捕まらなくて?係まで作られて?たった一人を大勢で追っかけまわしてるって?しかも、オレがそこに異動?」
マジかよ。馬ッ鹿じゃねぇの?と難破聡治は毒づいた。
聡治はもともと捜査一課所属であり、その成績も悪くはなかった。寧ろ、成績自体は優秀な方で、同期の中では上から数えた方が早いくらいである。しかしながら、聡治の評判はあまり良いものではない。傲慢で不遜、横暴、先輩刑事すら尻に敷く、エトセトラ。そんなあんまりなものであったために今回の異動が決まってしまったという経緯を聡治が知るのは、実はもう少し後の話である。
そして、異動初日。
「よく来てくれた!俺は小路井柵太。この鶴野係を取り仕切っている。というのも、俺と鶴野には深い深ーい因縁があってだなぁ……」
聡治は延々と続く小路井の昔語りをへぇーほぉーふーんと聞き流してしばかれ、小路井が鶴野の危険性について炎々と語るのをふーんへぇーほぉーと聞き流してしばかれ、さらに小路井が鶴野の手口とその対策について焔々と語るのをほぉーへぇーふーんと聞き流してしばかれた。誰にしばかれたかはお察しである。ケツが痛ぇ、とぼやいた聡治の肩を叩いた先輩刑事の苦笑いが心に沁みた。
まだこの時の聡治は知らなかった。鶴野と、そしてこの鶴野係の、否、小路井柵太の恐ろしさを……。
それから数日後。聡治はいつものように出勤し仕事して、いつものように小路井の長話を聞き流し、いつものようにしばかれていたところ、突然、小路井がハッとしたように上を向いた。
「はっ、鶴野!!」
「はぁ!?」
そして、小路井は走り出す。バタン、と扉を蹴破り、部屋から飛び出していく。なんだこいつ、という言葉を聡治は飲み込んだ。否、飲み込まざるを得なかった。なぜならば、聡治は絶賛しばかれ中であり、そして偶然にもされていたのがアイアンクローだったのである。そのアイアンクローを解かぬまま、小路井は走り出した。さあ、お分かりいただけただろうか。そう、小路井は聡治の頭を掴んだまま走り出し、聡治の頭を掴んだまま扉を蹴破り、聡治の頭を掴んだまま部屋を飛び出したのだ。ものすごい握力だ。聡治は声すら出せなかった。舌を噛まぬよう口を固く閉ざし、歯を食いしばっていたからである。
「鶴野ぉー!御用だーっ!」
雄叫びをあげながら小路井は車も使わず自らの足で走る走る。それは猛烈な速さだった。ああ、この景色が流れていく感じどこかで見たことあるな。ああ、新幹線か。などというどこか場違いな感想を半ば現実逃避に似た感覚で抱きながら、聡治は目を閉じた。これ以上目をかっ開いていたらドライアイが悪化しそうな気がしたのだ。その判断はどこかズレてはいるが、決して間違ったものではなかった。
数分後。聡治と小路井はとある一軒家の前にいた。アイアンクローからは解放された。その一軒家はごくごく一般の民家であり、怪しい点は見受けられない。こんなところに何が、と聡治が口にしようとした瞬間、小路井は動いた。無断で民家の庭に侵入、そしてガラガラガラ、と無断で民家の窓を勢いよく開け、一言。
「騙されるな!そいつぁ詐欺だ!」
「おい、何やってんだアンタ!」
つか、鍵は!?と聡治が言う前に、少年が庭木の陰からひょこりと顔を出した。
「お呼びですかー?ボクが鷺野照駄助(さぎのてだすけ)ですー」
そして、部屋の奥から登場した無駄にガタイのいいオネエ。
「お呼びじゃないわよぉ!特にとっつぁん!んもぅ、せっかくイイトコロまでいってたのにぃ!」
……ンだこの阿鼻叫喚。聡治は一瞬遠い目をした。特に少年、てめぇどこから出てきやがった。あ、庭木の陰からか。しかし、聡治は切り替えの早い人間だった。加えて、元々の能力も高い。窓周辺でやんややんやとしている彼らを放置し、民家の玄関先に回った聡治はインターホンではなくドアノッカーを使って家主を呼び出し、素早く警察手帳を見せる。家主である老婆に事情を聴けば、家前の通りに蹲っている女?がいたため、体調が悪いのかと思って家に入れて飲み物を与えたら、お礼にいい投資話があると言ってきたとか。聡治は仕事の片手間に読み漁った鶴野の詐欺手口一覧表を脳内でざっくりと参照し、判断を下した。
「おばあさん、残念ながらそれは詐欺、だな」
まあ、と驚いた様子の老婆に、玄関の鍵を閉めてチェーンロックも掛けておくようにと聡治は頼み、一言断ってから土足で室内に踏み込もうとした。その時。
「あれ、呼びましたー?」
先程の少年が聡治の目の前にひょこっと現れた。どっから現れたてめぇ……っ、と思う気持ちを必死に抑えた聡治は殊更にゆっくりと優しく少年に話しかけた。
「お前じゃねぇよ。ただちょっとあっちにいるオネエをしょっ引きに行くだけだ。ガキは帰んな」
「おにいさん、顔、怖いよ?」
ぷつん。聡治の脳内で何かが切れる音がした。案外と聡治は短気だったのである。
「あ?うっせぇな。さっさと帰りやがれ、ガキ」
聡治は少しばかり乱暴に少年を退かし、リビングへ足を踏み入れる。中ではまだ小路井たちがやんややんやと騒いでいた。聡治はニヤリと笑うと、そっと鶴野に背後から近づき、その手に手錠を掛け、
「いやん!ちょっと勝手に触らないでくれるかしらん!」
……られなかった。鶴野は華麗に聡治の手錠を避けると、玄関の方へ走り出す。窓には小路井がいて逃げられなかったのだ。
「ちっ、待て!!」
計算通り、と内心ほくそ笑みながら、しかし、外面は焦ったように、聡治は鶴野を追いかけた。あのオカマ走りならば容易に追いつけるだろう。そう、聡治は思ってしまった。油断してしまったのだ。もうすぐ玄関というところで、ガチャン!とものすごい音を立てて玄関の扉が開いた。
「鶴野ぉー!!」
「きゃー!とっつぁん!?」
嘘だろ、と聡治は思わず呟いた。解錠に手間取っている間に捕獲する算段だったのに。特にこの家のチェーンは古く、そして難解であることは確認済みだった。そもそも扉の鍵も、チェーンロックも壊して扉を開けるなんてことが常人にできるはずがない。あ、そうか、小路井刑事だもんな、と聡治は遠い目をした。小路井にしばかれ続けたせいで聡治は小路井の怪力っぷりを身をもって経験しているのだ。これで鶴野も御用かな、と聡治がなぜか疲れ果てていた脳で思考した時、鶴野が突然止まった。そして、キュッと右に方向転換した。その方向にあるのは階段。鶴野は猛然と階段を上りはじめた。オカマ走りなのに途轍もなく速かった。上がった先の部屋にはベランダがある。聡治が階段を上りきった時には、鶴野はすでにベランダの手すりに足を掛けていた。
「あーいきゃーん!ふっらぁーい!!!」
ばさり、と飛び降り、華麗に着地を決めた鶴野を聡治はベランダから呆然と見送った。お前もう鶴じゃねぇだろ、というツッコミは言葉になることはなかった。ああ疲れた、と聡治は後ろを振り向き、目を瞠った。どどどどど、と小路井が階段を上ってきたのである。そして、鶴野と同じようにベランダに足を掛ける。
「待てぇい!鶴野ぉっ!とうっ!」
バッと小路井もベランダから飛び降り、華麗な着地を決めた。そのまま聡治をここへ連れてきた時と同じ新幹線のような速さで鶴野を追いかけていく。聡治は黙ってそれを見送った。もう、何もかもに疲れていたのだ。そして、二人がギリギリ聡治の視界から消えないくらいの位置で小路井が鶴野にアイアンクローを仕掛け、無事、鶴野はお縄についた。
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――のは良かったんだが、結局は護送中にまんまと逃げられたらしい。あーあ、あん時の始末書の枚数はおかしかったな。ん?ははっ、バーカ、今の話で鶴野が捕まってたらこの鶴野係は疾うの昔に解散してるっての。……あ?昔のオレはガラが悪い?仕方ねぇだろ。色々あったんだよ、色々。可愛がられる弟と、結果だけを求められる兄。よくある構図だろ?……っと、悪ぃ。変な話しちまったな。忘れろ。ほら飲めよ。今日はオレの奢りなんだからな。遠慮なんてしてんじゃねぇよ。
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